世界は、どこまで我々を平等に生かすことができるのだろうか?
豊かさとはいったい、何なのか?
古賀裕也は30代でグループを率いる経営者としての地位に立つ稀有な存在である。
どんな業界でも、2世3世と引き継がれる豊かな家系では、次世代を担うと言う問題は大きい。
日本でも有数の大企業をグループに有する裕也もまた、日々このビジネスにおける存在価値と戦うことを余儀なくされる一人であった。
異母兄弟である弟を殺害されて早2年が経とうとしていた。
ようやく妻が懐妊し、新しい生命の誕生に、新しい人生の課題を模索する。
そんな日々を過ごしている。
その裕也に、父親から呼び出しがあったのは2ヶ月ほど前のことであった。
裕也の父、隆が築いた古賀グループは、この2年で業態を大きく一変し、グループからコンツェルンへと規模を変容させていた。
そのコンツェルンの総帥に今度は、裕也が納まるようにと要請があったのである。
日本はカルテルを嫌う。
市場が経済を築くと信じているからだろう。
しかし、市場はそんなに強靭ではない。
古賀隆は、裕也の他に4人の息子を養子に引き取り、それぞれにグループをあてがっていた。
21世紀が明け、未来に信託した金融業界の思惑のはずれが引き起こした世界経済のゆがみは、同時に地球の周期が数億年の周差で起こす気象変動による災害によって、更なる出血を免れず、大きく世界の姿を変えようとし始めていた。
中国の資本への目覚め
欧米の負債による金融崩壊
西欧の仲良しごっこが生んだ不均衡
そして、
この国、日本は政治の不在を負い目に世界からの孤立へとゆっくりながら、着実に歯車を回し始めていた。
社会が、インターネットの技術によって価値観をフラットにし始めると言う一見とてつもない恩恵が世界を巡ったと思った数年後、あたかも不本意なアンダー・カルテルの波は、有識者で動いていたかつての世界を大きく歪め、そこあそこと、金融崩壊を起こし、不理解な戦争、テロ、震災によって行く先の検証を不可能にし、かえって混沌を招いている。
貧困層や、個人的不満を抱いている無作為なエネルギーが、TwitterやFaceBookなどの技術によって国を脅かすなどと言う時代を、想像できた人物は少ない。
古賀隆は、その抗い切れないように見える経済と言う魔物と対峙してきたのであった。
そして、その向こうで妻を失い、愛人を失い、愛人との間にできた息子をも失って尚、毅然と立つことを求められて来たのである。
裕也には、そんな父親の生き様も、生き方も、考えている視点や、人生の悩みなども何一つ理解することができないでいた。
弟を失ったときでさえ、父親は一日も日本に居たことはない。
世界中を飛び回る毎日に、時折ある電話で話すのはグループの株式と市場の動向についてだけであった。
誰のせいで母親を失い、誰のせいで弟を失ったと思っているのか。
裕也の怒りはぶつけどころを見出せぬままそれでも、今日まで行き続けるしかなかったのである。
『裕也、私が憎いか。私を憎むのはかまわん。好きなだけ憎むがいい。だがな、私にはお前に対する責任と、最後まで守ってやりたいお前の部分とがある。お前にそれが、分かるか?』
久しぶりに出会った二人の間に交わされた実に数十年ぶりの親子の会話には、弟を失ったことへの後悔からか裕也の想像した事がない父親としての愛情が篭っていた。
『それは、この私が支えているものたちをお前に託せるようにすると言う使命と、お前にはまだ残っている裕也としての個人の人生を、少しでも謳歌させてやりたいと言う願いだ。』
財を築き、孤独になった父親の言葉の先には、悲哀が溢れていた。
『いいか、裕也。この世界には自分の生命を削って未来を造り出そうとしている人間がいることを忘れてはいけない。私利私欲ではなく、杓子定規でもなく、最高に鍛え上げられた英知を集結しても解決できない問題があるということの現実を受け止め、その上で尚、諦めることなく理想を追う。それが赦されている人間と社会がこの世には確実にあるということを知っておくんだ。お前は正義を探してはいけない。お前は、正義を造る側の人間になるんだ。』
―― 世界の頂点にでも君臨したつもりか?
裕也は、押さえ切れない感情を抱えながら、その言葉を受け止めた。
一気に多忙なスケジュールが彼を襲うことになるその前に
そして始まった次期総帥となるべく視察の日々の中で、世界中を飛び回りながら裕也は初めて父、隆が見続けていた視線を受け止めていったのである。
それは、実に稀有な経験であった。
世界がどんどん身近になる。
社会がどんどんフラットになる。
情報の量と質のまったく異なる次元での世界認識。
そして、自分の生命の意味との遭遇。
人間社会の限界点
人間社会の可能性
人間社会の責任
たった数ヶ月で、裕也は父の言葉を憎しみから、まったく違った感情で反芻することになったのである。
そして、あたかも人類の未来について考えると言う稀有な瞬間と対峙していたときに、彼と出会ったのであった。
世界中のセレブが集うAEUのあるパーティでの席であった。
世界の正義が大きく変わろうとしていると、その男は話始めた。
そして、それを真に人類に有益なものへと結びつけるために、ともに働かないかと
名乗った男の名は日下明人(くさか・あきひと)
「正義を正す仕事を一緒にやらないか?」
男はしっかりとした日本語を話していた。
裕也は、この出会いが自分を含めた世界を巻き込む大きなチカラによるものであることをまだ感じては居なかった。
そして、何よりもその男が、かつて別の名を持っていたことも
麻生圭と言う名を
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12畳ほどの空間である。
丸く円形上のアーチをした天井には、無数の光の点が照射されていた。
「21世紀のお前には、プラネタリウムにしか見えないだろうな。」
その光の空を見上げながら、男は静かにそう言った。
白い、頑丈そうなコートに身を包んでいる。
身長の高い男だ。
「じゃぁ、何なんだ?これは…。」
その男に、質問した方は、小柄で比較的華奢な体系に見えた。
黒のスーツが、この空間では更に黒くその身を沈めて行く。
その…光の空を見詰める瞳も、すこぶる黒かった。
…二瓶(NIDAIRA)。
男はそう名乗っただけだった。
CIAの秘密捜査官として働いていると言う。
「お前は、一体…何者なんだ?」
そう二瓶は続けた。
「これは、確かに地球から見た空の模写だ。だが、プラネタリウムではない。」
「だから…。」
「あの星…。」
男は指差したが、暗闇ではどの星を指しているのか、二瓶には分からない。
そのまま、男は話を続けた。
「あの星からここまでの距離は約126光年。つまり、今見えるこの光は、126年前の光と言うことになる。」
「はぁ?」
二瓶は、つい先ほどまで富士の樹海で麻生圭と対面した所であった。
見たこともない兵器と、見たこともない浮遊術で、目の前に現れた男…年齢不詳で色の白い中世的な男だ。
その、麻生から殺されかけたところを救われたのである。
いいや
救われたのは、殺されかけた場面ではない。
救われたのは、麻生から同じ世界へと誘われた場面でだ。
二瓶は、麻生の言葉に心を奪われかけていた。
人間の欺瞞・傲慢・残虐性…
一体何が本当に悪なのか?!
麻生は、言葉巧みに、それを持論で説き解して行った。
『面白い…キミなら、僕と一緒に戦える…。』
確かに…麻生は二瓶を誘惑した。
そして…次の瞬間、この男が現れた。
東京の拘置所から姿を消した筈の男が…
「これは、時空のMAPなんだ。君たちの時代から数百年後、人類はタイムマシンを完成させる。その運用に欠かさないのが、時空間のMAP…かつて、人類が何気なく眺めていた星空こそが、そのMAPだったんだ。あの星までの時間は150光年、そしてあの星は23万光年、桁数を下げてその光と距離を計算し、この平面的な光の配置をもう一度別の形に展開し直すと、行きたい年月の我々の星へと辿りつける穴を見つけることができる。そうやって人類は、まず惑星間でのタイムトラベルを完成させたんだ。」
― 何の話をしているんだ?
「人類は、いつになったら《人類》について考えるようになるのだろう?」
「はぁ?何の話を…」
「目の前にある本当の危機を、誰が真剣に感じ、それと向き合っているのか?」
「200年以上も未来の問題に気付けと?」
二瓶の今度は後ろから、声が上がった。
「じゃぁ、なぜ彼を連れてきた?」
「《今のお前※》で、話すのはどうか?と言ったんだよ。彼はまだ何も知らないんだ。」
※話をしている時点での時間座標を指摘している。
「だから、ここへ連れてきたんだろ?」
― 何の話をしているんだ?
「健児、俺たちは不老不死になった訳じゃないんだ。時間は何の制約も受けない。俺たちは、タイムトラベルと言う特権を得ただけに過ぎないんだ。そこでは、外側と内側と言う二つの時間の流れがあるに過ぎない。我々は、その外側から見たときの何百年もの時間の流れの中を行ったり来たりしながら、内側では同じく《現在》を生きているのだよ。」
「じゃぁ、何のためにこいつを…」
「言っただろう、外側では時間がまるで自由に操れるかのように見えるが、内側からみれば等しく《現在》を走っているに過ぎないと。つまり…ないのだよ。我々には、時間も人も…。」
「フォルトゥナ…」
「二瓶と言う名前だったな。君は何のために生きている?何のために戦っている?我々は、200年後の地球を救うために《現在》戦っている。君の前にいるその男も、我々の仲間だ。だが、彼は200年後の未来を救うために戦っている訳ではない。」
「フォルトゥナ?」
「彼は、君と同時代の人間だ。だから君を呼んだ。彼が全力で戦えるように…。」
二瓶は、今目の前で起こっていることを冷静に見つめた。
プロファイリング。
マインドコントロール。
考えられる可能性を一手に脳に集めながら
「君には、君の時代を救ってもらいたい。君さえ良ければ…だが。」
「フォルトゥナ!」
「健児、君の力はまだ私たちに…いや…私にとってどうしても必要なんだ。判るね。君は私たちと一緒に、特異点=クリスチャンを消すチームに残ってもらう。そして、彼にはもう一つのチームと共に新たなターゲットを殲滅してもらう。」
「新たなターゲット?」
二瓶と健児の両方が答えた。
「麻生圭だ。」
「そんな…」
「健児!もう時間がないんだよ!確かに私は君たちの200年後の世界のことしか考えていないかもしれない…だから……私のために君に働いてもらう代わりに、彼に君の代わりを務めてもらう。」
「勝手な……」
それから数分…その空間で数分と言う時間の間、二瓶は強制的に、数十の時空間を渡り歩き、タイムトラベルを経験した。
そして、麻生が企んでいる恐ろしい未来も…
「どうする?」
不要な質問を、敢えてフォルトゥナは問うた。
― レベルが違いすぎる?!
圧倒的な経験が、それを実感させた。
無理もない、いきなり2世紀先のテクノロジーに感化されたのだ。
「俺は、留置所で死ぬのは嫌だ。《生きて》死にたい。」
人工的に作られた星空の望む暗い空間で、そう呟いた健児の、暗がりで見える筈のない顔を見上げながら二瓶は決心した。
「あいつを消したら、俺はどうなる?」
「自分の生活へ戻るも、俺たちと時間の外側へ来るも…自由だ。」
二瓶の質問にフォルトゥナが応える。
「…はぁ。…生きてたら考えよう。お前らに着いていけるようすぐ訓練してくれ。」
大きなため息をついて、しばらく沈黙の後、二瓶はそう力強く答えた。
「よし。」
フォルトゥナの唇がVの字に大きく曲がった。
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イタリアから急遽ボストンのDFCI(ダナファーバー癌研究所)に戻ったヴィンツェンツォは、研究チームの中で比較的目立たない女性研究員のステファン・シュナイダーを自身の研究室書斎に呼び出した。
まだハーバード大医学部の院生だったステファンは何事だろうと内心、不安を抱えたまま書斎のドアをたたいた。
優秀であるとは言え、いままで研究所長に呼び出されたことなど一度もなかったからだ。
一見窮屈にすら見えるその書斎は、さながら小規模の図書室のようでもあった。
奥のテーブルに招かれると、ポットから直接コーヒーを入れてヴィンツェンツォは、マグを彼女に差し出した。
そして、こう言ったのである。
『君は、神についてどう言う見解を持っているかね?』と
― 最初の一言が肝心だ。
大学の教授なんていうものは、途方もない質問をしてくるものだが、その質問に込められている想いはことのほか深い。
ステファンは、震えながらコーヒーを一口呑んで、頭の中をぐるぐると巡った。
「君は、富士見博士のチームにいるんだよね。」
ドクター富士見は、研究所で癌の応用分野について研究をする極めてユニークなチームを率いる研究員だった。
その名が示すもうひとつの日本語“不死身”が彼の研究テーマとなったと言うが、ヴィンチェンツオよりも15も年下の(と言っても50をゆうに越えてはいるが…)若い教授だ。
癌を人体に有効利用するというアンチなテーマは、実際のところ、ヴィンツェンツォにも非常に興味深いテーマでもあった。
そんな研究をしている別のチームの一員を呼び出したのである。
DNA解析を主とする遺伝学の権威が、興味本位で彼女を呼び出したとしてもなんらおかしくはないが、何事かと思われてもしかたない。
しかし、ヴィンチェンツオと彼女との間にはまったく接点がなかった訳ではない。
彼女の研究していた血液の問題についての少なからず助言を与える論文が6年前にヴィンツェンツォから発表されていたからだ。
それにしても、ステファンには、どうして自分が呼ばれたのか理解に苦しんでいた。
去年の論文にヴィンチェンツオの論文から使用した引用文が何か気に障ったのだろうか?
不安が闇雲な詮索をさせて、ステファンを硬直させていた。
「君は、ユダヤ教徒だったね。」
「はい。血縁にユダヤ人はいませんが…。」
唐突な質問と、その質問の距離感が一瞬だけ、ステファンを恐怖から解放した。
「おもしろい答えだ。だが君らしい。」
宗教の自由は、アメリカでは当たり前のように法律で守られている。
彼女がユダヤ教であると言うことは、別段不思議なことでもない。
「君は、ヘブライ語を読んだり、話したりすることもできるのかい?」
― なぜ?
― 何を聞こうとしているの?
「いいえ。」
「では、聖書で”神”を表すヘブライ語は知っているかな?」
「知って…いますけど…。」
質問の意図が分からないままの会話に、ややぎこちなく答える。
「私たち医学者は、神に従うものだと思うかね?それとも背くものだろうか?」
「先生は、どちらだとお考えなんですか?」
一瞬考えてから、ステファンはそう答えた。
どちらと答えても利を感じられなかったからだ。
「神の存在を認めるなら後者。その存在を認めないなら、前者…。」
ヴィンチェンツオはゆっくりと尋ねるか、同意を求めるように、頭を横にかしげながら、最後のことばを言った。
「私は、特に宗教を持ってはいない。イタリアの大学からこのボストンへきて早30年、研究に宗教が必要になったこともない。」
「はい。」
「だが、時折ふしぎに思うことがあってね。キリスト教国のこの国のせいかも知れないが、聖書も何度か読むチャンスがあった。そのときから、ずっと頭に残っている疑問があるんだよ。」
「ずっと残っている疑問ですか?」
うん。とうなずいて自分のマグでコーヒーを飲み干すと、瞳を輝かせながら、ポッドを取りに席を立った。
「どうして、神は、名前なんて持ってたんだろう?」
ステファンに背中を向けながら、言った。
「名前を?」
何かのなぞかけか?とステファンはそれでも真剣に考え込んだ。
テーブルに戻ったヴィンツェンツォは、ノートを開いて文字を書き始めた。
Τετραγράμματον。※1
そう、ギリシャ語を書く。
「テトラグラマトン…。」
すぐ、ステファンがそれを口にした。
「読めるのかね。」
「神の名の4文字のことですか。」
ギリシャ語が読めるとは一言も返答せずに、ステファンが答えた。
YHVH, YHWH, JHVH, JHWH, IHVH…
ノートに神の名前と言われて久しいものを列挙してゆく。
「私の先祖は長くカトリックだったそうだ。でも、聖書はこの国に着てから読んだんだけどね…うるさい訪問者がいてさ…毎週末教会へ誘いに着てね…」
ヴィンチェンツオはしばらく自分の生い立ちや故郷について懐かしそうに語った。
ゆっくりと、少しづつ空気が穏やかになってくるのが分かった。
「癌が血液型を変えると言う特性は最近では珍しくもありませんが、それを引き起こしやすいO型と言う血液型はことのほかおもしろいんです。」
「ふむ。」
「そもそも1900年にオーストリアのカール・ランドシュナイダーによって発見されたこのABO式の血液型は、論文で発表された当初は、ABC型の血液型でした。…。」
気分のよくなってきたステファンは、大教授を前に悠々と血液についての学識を語り始めた。
ABC型のC型が、後に数字の0(ZERO)型になり、さらにO型と呼び親しまれるようになる。※2
このO型は、輸血でも優遇される血液で、他の型との共有が可能だ。
21世紀には、A型やB型などの血液をO型に変質することが出来るホルモンもハーバード大学では開発され、後に多くの要輸血患者に貢献した。※3
このことを知ったステファンが進路をハーバードに絞り、今日に至ったと言う。
ヴィンチェンツオは子供の頃に帰ったように、彼女の話を楽しく聞いていた。
一通り話し終え、彼女のマグのコーヒーも切れた頃、ようやくヴィンツェンツォは、本題に入った。
「君を呼んだのはね、ひとつ賭けてみたい質問があったからなのだよ。」
「どんな質問ですか?」
「それは、もうしたんだがね…。」
そう言うヴィンチェンツオに、目をまるくしてステファンはしばらく黙り込んだ。
そして、思い出そうと必死に考え込んだ後、目の前のノートに視線を戻した。
ノートに羅列されたアルファベットの走り書きを、何度も見る。
しかし、なんら思い浮かびもしない。
さっきまで流暢だった口がまるで恥ずかしくなった。
「ヨッド・ヘー・ヴァブ・ヘー。このヘブライ文字4文字は、アルファベットではいくつも姿をもってしまう。しかし、姿は複数でも、型はいくつだろうか?」※4
― 型?
「あ?!」
思わずステファンは声を出した。
「分かるかね。君なら、分かるかと思ってね。本題は、ここからだ。神を名前としてではなく、ひとつの型として捕らえたとき、この型は何かに似てはいないだろうか?」
「この型が…ですか?」
再びステファンは頭を抱え込んでしまった。
その間に席を立ったヴィンツェンツォが新しいコーヒーを互いのマグに注いだ。
いつのまにか、窓の外が暗くなっていた。
もう3、4時間は過ぎている。
コーヒーを手に、ヴィンツェンツォは必死に考え込む学生を静かに眺めた。
「生命に、神が宿っているとしたら?それはどんな形をして存在するのだろうねぇ。」
独り言のようにヴィンツェンツォが宙に向かって、語り始めた。
私たちは、医学という分野において、少なくとも有史以来、神に、言い換えるなら創造者に挑戦してきた。
だが、医学者は多くの宗教家が、創造者に成り代わろうとしたのに対して、決して創造者になろうと考えた訳ではない。
だとしても、私たち医学を学び有するものたちは、これまで実に多くのものを創造することに成功したと言えるだろう。
それでも、まだ私たちには作り出すことの出来ないものが多い。
血液も、そのひとつだ。
血液をABO型で識別する場合、その識別の基準となるものは…
「フコース(fucose)」
「そう。」
と独り言に参加したステファンにヴィンツェンツォが答える。
フコース(fucose)は、日本ではH抗原と呼ばれている。※5
ステファンは、再び、今度はペンを持って、ヴィンツェンツォのノートをにらみ出した。
YHVH, YHWH, JHVH, JHWH, IHVH…
そこには、繰り返し別のアルファベットに置き換えられたテトラグラマトン(聖なる4文字)が書かれている。
この元々のヘブライ文字4文字が、ヨッド・ヘー・ヴァブ・ヘーである。
ヨッドを●、ヘーを▲、ヴァブを■と置き換えてみる。
すると、『●▲■▲』と言う型が生まれる。
このうち▲だけが重複していることに注目してみた。
すると、『●▲2■』とさらに省略できるではないか。
ステファンは、それをじっとにらみ続けた。
ヴィンチェンツオは、静かにコーヒーを飲んでいる。
そうして次にステファンはノートに、何か必死に書きなぐった。
そうしながら30分以上が経過した頃、
「分かった!」
とステファンが叫んだ。
「ヒドロキシル基ですね!」
特有の物性や化学反応性を示す分子構造のひとつで、水酸化化合物の基となる分子グループのことで、一般的に“官能基”と呼ばれる部類に属する。※6
「惜しい。でも合格だ。私の見解は、アルドース (aldose)だよ。ステファン。」
「あ、そうだわ。ホルムアルデヒド (formaldehyde) だわ。」
「よろしい。」
血液の型を分ける役を担っているのは、HやOと呼ばれる抗原で、英語ではフコース(fucose)と呼ばれる単糖である。
そして、この抗原に更なる糖質が結びついて、血液はAやB、ABへと変化してゆく。
アルドース (aldose)とは、糖質をその構造により分類する際に用いられる化学の用語で、分子の鎖の末端にアルデヒド基と言う有機化合物を1つ持ち、CnH2nOn (n ≥ 3) の化学式を持つ単糖類を指す。この内、もっとも簡単なアルデヒドが、ホルムアルデヒド (formaldehyde) と呼ばれるもので、分子式は CH2O。※7
すなはち、CH2O=●▲2■である。
すごい?!と言わんばかりのキラキラした瞳でまっすぐにステファンがヴィンツェンツォの老いた顔を見つめる。
思わず年外もなくヴィンツェンツォの頬が赤らんだ。
そのキラキラした瞳のステファンに、ヴィンツェンツォは席を立つと右手を伸ばして次のように言った。
「君を正式に採用したい。私と一緒にアフリカへ行ってくれないか。神をいじる実験が待っているんだ。」
「はい。」
ステファンの答えには、迷いがなかった。
むしろ、彼女の瞳のようにキラキラとした即答だった。
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注解
※1:テトラグラマトン
ギリシャ語で聖なる4文字と言う意味。そもそもヘブライ文字には母音がなく、発音するためには母音の文字に代わる記号を要した。そのため、ヘブライ文字のみだとどう発音するのか、また、正確には何を指すのかが判別できないものが多い。“神”を日本語読みで、母音と子音に分けると“KAMI”となり、母音が“K”“M”子音が“A”“I”となる。
母音のみから判別しようとすると、KM=KAMA、KAMI、KAMU、KAME、KAMO、KIMA、KIME、KIMU、KIME、KIMO、KUMA、KUMI、KUMU、KUME、KUMO、KEMA、KEMI、KEMU、KEME、KEMO、KOMA、KOMI、KOMU、KOME、KOMO。
と、上記のバリエーションが母音から派生し、言葉数が多くなるほど、何を指すのか判別はむずかしくなる。
神は、聖書ではみだりに呼び出されないために、母音を封じたとある。この封じた母音を除く文字が、聖なる4文字と呼ばれている。
ちなみに、日本語では母音はAIUEOの5種類だが、ヘブライ語では19種類あったとされている。
参照:ウィキペディアよりテトラグラマトンについて
※2:ABO式の血液型
1901年、オーストリアのカール・ランドシュナイダーによって最初に3つのタイプが発見されABC型と呼ばれた。翌年、4つ目のタイプのものも、別の学者によって発見されたが、その4つ目には1910年にAB型と命名。C型と呼ばれていたものはO型と改められる。血液型は、ABO式が一般的で有名だが、他にもRh式、MNSS式、P式、ルイス式、ダフィー式、ディエゴ式など、多数の血液型がある。
参照:ウィキペディアよりABO式の血液型について
参照:日本赤十字社
※3:A、B型血液をO型に変える酵素を発見
2007年4月2日
ハーバード大学医学部兼コペンハーゲン大学のHenrik Clausen博士らのチームが、A、B型血液をO型に変える酵素を発見したと発表。
参照:healthdayjapanニュース
参照:英文ニュース
※4:Yodh、He、Waw、He
神を意味するとされるヘブライ文字。すべて子音で構成され、順番に縦に並べるとヒトの形になることから、『神はご自身の形に似せてヒトを造られた』創世記1:26と言う場所を補完すると言われる。
参照:ウィキペディアよりYahwehについて「画像あり」(英語)
参照:ウィキペディアよりYahwehについて(日本語)
※5:フコース(fucose)
糖質の中で、デオキシ糖と呼ばれるものの一種。デオキシ糖は、酸素が足りない糖を言うが、これによって、他の糖と結びつく性質を持つ。これが、N-アセチルガラクトサミンと結びつくとA型の血液になり、ガラクトースと結びつくとB型の血液になる。
参照:ウィキペディアよりフコース(fucose)について
※6:ヒドロキシル基
有機化学において構造式が −OH と表される1価の官能基。官能基同士の水素結合が可能で、水に溶けやすいと言う性質をもつ。無機化合物の陰イオン( OH− )と混同しやすいが、まったく違うものである。
参照:ウィキペディアよりヒドロキシル基について
※7:アルドース (aldose)・糖質・ホルムアルデヒド (formaldehyde)
アルドースは、糖質をその構造により分類する際に用いられる化学の用語。
参照:ウィキペディアよりアルドース (aldose)について
参照:ウィキペディアより糖質について
参照:ウィキペディアよりホルムアルデヒドについて
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ふと二瓶はそんな他愛の無い疑問に捕われた。
それは、もちろん二瓶が語学に堪能で、頭脳明晰、筋力とそれをコントロールする精神力に裏づけされた成熟さを持っているからだが、それだけではない。
エリートであることを完全に打ち消せる資質を秘めていたからだ。
UNDER COVER―諜報員は極秘裏に捜査を遂行するため、自身を偽る能力を求められる。
ある時は学生、ある時はサラリーマン、ある時は医者、ある時はホームレス、ハリウッドの役者人が唸るぐらいの演技力でも、この世界では生き延びられないと言う。
演じるのではなく、そこに生きる。
そんな過酷さをもろともしない精神力が必要なのだ。
日本人の男性の平均身長、平均体重、平均の顔…そうした総合的要素から、二瓶はCIA※1に信頼を受けたのである。
20代の顔艶だが、経験と知識とがかもし出す雰囲気には、大御所のような落ち着きが見られる。
線の細い青年である。
『おまえは、女を知らないのか?』
以前、上官のジェラルド・ヒュ―ミントにそうからかわれたことがあった。
恋愛に奥手だった訳ではなかった。
学生時代にスカウトされ訓練と実践で過ごした20代の殆んどの時間の流れの中で、そう言ったロマンスに割く時間が無かったのである。
訓練を兼ねて参加した国連維持軍で、戦火の中を助け行く女性たちに向かって欲情する他の兵士たちを二瓶は不思議な思いで見ていた。
荒廃した家屋の影で、同じ部隊の男たちに襲われそうに成ったこともあった。
『日本人のおぼっちゃんが何しに来てるんだよ?え…ここはおまえらみたいな奴の来るところじゃないだろう…。』
『日本人は戦争が怖いんだってよ。なぁ、俺たちがお前のことも守ってやるぜ。』
『可愛がってやるから、その不細工な服を脱いじまいな。』
二瓶は、人間の醜さも、恐ろしさも、本当に知らないで育った男の子だった。
中産階級のサラリーマンを父にもちながらも、一人っ子だったおかげで海外の大学へも留学させてもらえた。
学生時代は、スポーツでは陸上を嗜み、大学ではマラソンを主にする地味な学生だった。
何がどこで、どうなって、いま自分がなぜ、この戦場に居るのかすら、一瞬わからなくなる。
それでも、戦火で原住民を助けた時の正義の達成感は二瓶を動機付けた。
自分は正義を行っている。
弱者を助けることをしているのだと
その同じ部隊の男たちに、いまレイプされようとしていたのである。
昨日まで一緒に夢を語りもした仲間が、二瓶の両手を押さえ、下半身に手を伸ばし、ズボンを下げた。
『おとなしくしてろよ。すぐに終わるからよ。』
その声の向こうで、泣き叫んでいる家族がいた。
その声の向こうではまだ銃撃が止んではいない。
こんな戦況下で…。
― こいつらの正義はいったいなんだ?
『おい、おい、泣いちゃったぜ。』
『泣くなら、声だして泣いてくれよ。その方が興奮するぜ。』
― 神よ。赦したまえ。…私は…
『日本人のお子ちゃま…かわいいぜ。』
― 正義を行い……
『なかなか綺麗なカラダしてるじゃないか。』
― こいつらを…仲間と見なさず……
静かな焔が全身を熱くする。
訓練されたものは、緊急時になるほど冷静さを発揮すると言う。
焔の色は、通常イメージするものは赤く、また熱が冷めたCOOLな状態は青く感じるだろう。
しかし、現実の焔では、青い色ほど高熱で、赤い色ほど温度は低い。
二瓶は、まさに冷静さを持って、COOLに通常より高熱度の激情を憶えていた。
― 貴様らを…成敗する。
静かに決意すると、目蓋を閉じた。
観念したな、と男たちに思わせた先で、一気に全身の筋肉を動かす。
フランスで出会った古武術家から学んだ柔術の切れ味は本物だった。
裸にして、手首を掴んでいることで拘束できたと思っていた5人の巨体を、ものの数十秒で刺殺したのである。
容赦のまったく無い急所への攻撃が、細くしなやかな体から繰り出される針のようなスピードと軽やかさで、誰一人悲鳴をあげる隙間も与えなかった。
― 日本人ほど、戦争を長くしてきた民族は居ない。
― 日本人ほどモラルや社会に縛られずにわがままに生きてきた民族はいない。
― 近代になるまで識字率が低く、武力と権力に長い間屈してきた民族の血は、現代も研ぎ澄まされれば、瞬時に斬光を放つ蛮獣の刃となるのだ。
ようやく20歳を迎えた年であった。
* * * * * * * * * * * *
もう…間もなく10年前のこととなる出来事を思い出しながら、二瓶は富士の樹海で、全身を熱く煮えたぎるものに包まれていた。
その視線の先には戦場が広がっていたのである。
通報があったのは、昨日の夜、辰巳涼太郎と名乗る男とすぐその後に古賀香奈と言う女性からケータイに直接連絡が入ったのである。
二瓶のケータイの番号は、麻布署の土門から入手したらしい。
その電話の向こうで、麻生圭を見つけたと聞き、駆けつけたのである。
そして、目の前であっという間に数十人の屈強そうな男たちが殺されて行くのをみたのであった。
二瓶の口から、言葉が消えていた。
代わりに大きく開いた瞳孔が、空中に浮く不思議な光景をくぎ付けにしている。
それが、麻生圭であった。
GパンにTシャツで、腕を組んだまま何やら好奇の眼で、二瓶のことを見下ろしている。
「キミも…このコたちの仲間?」
二瓶の思考は止まっているようだった。
「う〜ん…なんかちがうんだよなぁ…うん。なんかちがう。キミ、他のコとなんか雰囲気が違うよね。もしかして…キミ、こっち側に興味ある?この武器、使ってみる?」
― な…何を言っているんだ?
「なんだろう…おんなじ匂いがするんだけどなぁ…」
― 同じ匂い?
「キミさ、人間が…嫌いでしょ。世界がとっても汚いって思ってる。どこへ行っても勝手な奴らばっかり…だれを見ても価値ある人生なんて歩いていない。ね、そう思うでしょ?僕と一緒に壊してみない?あんな奴ら、掃除しちゃえばいいんだよ。」
ゆっくりと、静かに話すその言葉は、樹海の森の風に乗って、なんだか不思議なメロディのように二瓶の耳を撹乱する。
― 私は…
「人間が汚いと思っている。」
― 私は…
「人間の傲慢に飽き飽きしている。」
20歳の時の忌まわしい記憶が脳裏をかすめる。
「人間がこの星を滅ぼそうとしているんだよ。」
泣き叫ぶ異国の小さな家族の影が…
― 私は…
「僕たちは、正義なんだ。」
― 正義?!
過剰にその言葉に反応した。
「僕たちは選ばれたんだよ、この世界のゴミを掃除するために…」
― 選ばれた?
大学で声をかけられ、CIAに入った…
「面白い…キミなら、僕と一緒に戦える…。」
ゆっくりと、麻生圭は二瓶の前に下りてきた。
「さあ、…」
差し伸べる手を、二瓶の手が……
ギンッツ!!
その間を裂くように、巨大な鋼が振り下ろされた。
「おお!びっくりしたなぁ…」
すぐさま空中へ逃げた麻生だが、すぐその後を鋼が追う。
「圭!!」
地上では、また別の男が二瓶の隣りに立っていた。
緑の森の中に、無数の白い男たちが突然現れる。
烏が声高く天に飛ぶ先で二つの点が交差した。
「しっかりしろ。」
肩をゆすられ、我に返る。
「あなたは?」
自分よりはるかに身長が高い。
髪を後ろに結んだ細面の日本人の男がそこには立っていた。
「彼は、キミたちでは太刀打ちできない。この場は私たちに任せて、さぁ、行って…。」
ビイイイイイ……
ズバズバズババババ…!!!!
空中の麻生の腕からケイン・ブラスターが大地を切り裂く。
「危ない!」
二瓶の身体を抱き寄せながらビームロッドをかわした先で、大きな声で麻生圭が叫んだ。
「健児!おかえり!待ってたよぉ!」
「健児…木曽…健児?!」
昼の太陽が、ちょうど麻生圭の先に輝いていた。
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注解
※1:CIA
アメリカ中央情報局(Central Intelligence Agency)の頭文字をつなげたもの。
アメリカ合衆国の諜報機関の1つであり、CIA長官によって統括される。アメリカ合衆国の情報収集と分析・対外工作を行う機関である。
参照:ウィキペディアよりCIAについて
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ロバート・ノンブウェルは、朝か夜か分からない地下の研究室にある図書室のような書籍が建ち並ぶ書斎の中で、もう約3時間弱を行ったりきたりぶつぶつと呟きながら過ごしていた。
血清疫学の若き新星、セルベント・マティーニに新型のウイルスの臨床検査を依頼して、間もなく1ヶ月が過ぎようとしている。
臨床検査の結果はこの1ヶ月ほぼ変化を見せることはなかった。
−Hemolyzed.
ウイルスは、ほぼ免疫学の学会では現在も最強と謳われている殆んどの強力な人体への破壊力を持つものに対して圧倒的とも言える侵食力を持っていた。
ウイルスを食べるウイルス。
初めて、この研究所に送られてきてから、もう1年をゆうに過ぎている。
時間のかかる新種だ。
それだけ謎の多い新種であった。
この新種のウイルスは、他のウイルスを侵食した後、満腹を覚えると遺伝情報ごと崩壊すると言う不思議な現象を見せた。
それが、血液内では血球にまで影響を及ぼす。
そして、細胞壁を傷つけられた赤血球は圧壊。
つまり、血液は、ウイルスの進行により溶血(Hemolyzed)するのである。
「中佐。入ります。」
セルベントが研究室から戻ってきた。
「ミスィーの結果は?」
黙ったまま顔を横に振る。
「そうか…。」
研究所では、ウイルスに新しい名前が設けられていた。
Mise:ミスィー
一見、このウイルスは、エイズやエボラなど現代の免疫学では淘汰できない強力な殺人ウイルスに立ち向かえる可能性を見せてくれる。
他のウイルスを侵食し、そのウイルスを遺伝情報ごと崩壊させると言う、もの凄いチカラを持っているからだが、その一方でこのウイルスは、限りなく脆弱な一面を持っていた。
血液そのものを溶血させる。
つまり、血液を破壊してしまうのである。
いまのままでは、他の殺人ウイルスと何ら代わらない。
ウイルスは、この1年の間に、いつしか、今のままでは“使いものにならない”と言う意味からMiseと名づけられた。
“使いものにならない”と言う単語の「Naff」(音はナフ)に“音”として「E」(イ)を加えることで、「Enough」(イナフ)になることから、MissEと呼ばれ、それが今では、このまま研究成果が出なければ、ただの惨めな研究に終わると言う意味をも含め、惨めと言う語「Miserable」のMiseとも掛け合いながら、等しくMise(ミスィー)と呼ばれるようになって行ったのであった。
このミスィーが、血液を溶血させることなく、他のウイルスを侵食し、且つウイルスのみが遺伝情報ごと崩壊するような安定を示せれば、これは、まさしく最強の免疫素材になる。
セルベントも、ロバートと同じく目の前にあるウイルスの可能性に魅了されながらも、その大きな壁に立ち向かえない自分をもどかしく思っていた。
「それですか…。」
ロバートが大切に見ていた古ぼけたノートに視線を注ぎながら、セルベントが言った。
「リアル・ブラッド…天才の名を欲しいままにした医学者ルイジ・グルアーニは、これを既に完成させていたと言うか…。」
「彼は…いまどこに?」
「母国フランスの軍人に殺されたよ。」
「どうしてですか?」
「政治的な問題の理由なんかワシには分からんよ。ただ…このXXXXには何かが入る筈なんだ。」
「Xが4つですか…DNAでは、塩基の数は4つ…その塩基の配列を示したもの…でしょうか?」
「いや…わからん。手がかりが少なすぎる。だが、このXXXXがカギだと言うことだけは分かるんだが…。」
* * * * * * * * * * * *
同じ頃、イタリアに帰省したハーバード大学医学部ダナファーバー癌研究所の、人工血液開発研究班特別顧問レオナルド・ヴィンツェンツォは、可愛い愛娘の出産の現場に立ち会っていた。
廊下で待っていたヴィンツェンツォに声をかけてきたのは、娘の主治医の一人でピエールと言う名の男だった。
「教授。教授のご子息のことで折り入ってお話が…。」
なにやら神妙な顔つきのピエールとともに、娘の下を一先ず去ったヴィンツェンツォを待って居たのは、思いも寄らない話だった。
「お孫さんは、生後間もないですが、ベータ・サラセミアに羅患されていらっしゃいます。」
「ベータ・サラセミア?」
「はい。それも、かなり重度の…」
ベータ・サラセミアとは、別名を地中海性貧血などと呼ばれることもあるが、アフリカと地中海沿岸に患例が多く見られる疾患である。
症状は軽度のものから重度のものまであるが、血液が非常に短い時間で崩壊することで有名な病気である。
「重度のって…どのくらいかね…」
「3時間おきに輸血の必要があるほどの重症です。」
「輸血が3時間ごとに必要…?!」
― そ、そんな…。
「お父さん…」
病室には、娘だけがベッドに横たわっていた。
「おめでとう。」
必死に笑顔を作って言う。
「ありがとう。もう見てきた?」
子どもはICUで管理されていたが、謁見はできる。
「ああ…元気な男の子だったよ。凄いじゃないか。」
「元気じゃないわ。だって…」
「ああ…」
実際は見ることが出来ずにここへ来たのだ。
「ねぇ、アルバって言うのよ。」
「アルバ…“創造”か。」
「違うわよ。“朝”よ。私たちの夜明け…二人で築いた新しい“朝”。」
「アルバ(朝)か。いい名前だ。」
夕日の沈む紅い空の下、ヴィンツェンツォは今しがた会話した娘の顔を思い出しながら、独り、屋上のベンチで涙を零していた。
ベータ・サラセミアは、重度であれば完治が殆んど無理で、10代でいのちを失う場合が多い。
ましてや、生まれたてですぐ輸血を必要とする容態では…。
沈み行く夕日に、夜明け(アルバ)を嫉妬するように、ヴィンツェンツォは涙を流すしかなかった。
― 私は、世界的に権威のある医学者だと言われていながら、自分の孫のために何ひとつしてやれない。なにひとつ…
チカラを込めた手には、家のポストから持ってきた自分宛ての手紙が握り締められていた。
涙がひざに零れ落ちたとき、ヴィンツェンツォの脳裏を、ある人物が浮かんだ。
同じように、子どもに血友病患者を抱え、苦しみながらも果敢に立ち向かおうとした医学者の顔である。
― お前には、探し出せる。
そうヴィンツェンツォに手紙の中で言ってきた、本来は師と仰ぐべき古き学者仲間である。
彼もまた、血液の病気に有効な技術の開発に挑んだ学者だった。
ルイジ・グルアーニ
その彼が生前研究していた内容が、移植ではない別の方法での血液機能欠損症への対応であった。
― もしかしたら、孫にも有効かもしれない?!
ヴィンツェンツォは、握り締めた手紙の束の中から、差出人不明の封筒を開いた。
その封筒の表には、RBと言う刻印だけが書かれていた。
それがすぐに、グルアーニからの手紙であることは分かったからだ。
焦る気持ちのまま、封筒を開く。
中からは、一枚の新聞の切抜きが出てきた。
10年前、アフリカでグルアーニと一緒に研究したゲノム実験についての記事だ。
それは、世界中でも珍しいとされるある女性についての研究であった。
染色体のうち、性染色体と呼ばれるものがヒトには2つある。
男性は、2つのうち片方を(X)、もう片方を(Y)と言うが、女性の場合は、両方同じ、(X)と呼ばれている性染色体をもっているとされる。
しかし、そのアフリカで見つかった女性の染色体には性染色体(X)が、通常の倍の4つあったのである。
Super Females.と呼ばれる非常にめずらしいタイプの女性の遺伝子を研究すると言う、興味深い内容で記憶に新しい。
ふと、脳裏をグルアーニの言葉がよぎった。
― データは5つに分けた。君なら探し出せる。いいや、君にしか探し出せない
「まさか?!」
ヴィンツェンツォは、その足で、アフリカへと向かった。
夜明け(アルバ)を見ることなく。
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